28歳西田凌佑「負けると言われたほうがいいですね」奇妙な世界王者”の正体

6月8日、IBFバンタム級王者・西田凌佑(28歳/六島)がWBC世界同級王者・中谷潤人(27歳/M.T)との王座統一戦に挑む。無敗同士の日本人対決ながら、西田はキャリアとパンチ力で上回る強敵に「負けても失うものはない」とチャレンジャーの姿勢を崩さない。控えめな発言の裏に隠し持った勝利への執着心とは?【NumberWebインタビュー全2回の前編/後編も公開中】
違和感があった。4月18日の記者会見で西田凌佑が二度、口にした「挑戦」という言葉だ。
一度目の「挑戦」は、文脈的に不自然ではなかった。「自分としては、タイトルを返上してでも中谷選手に挑戦したいと思っていたんですが」。指名試合が避けられないのであれば、IBF世界バンタム級王座を返上し、挑戦者の立場でWBC王者の中谷潤人と戦うことまで覚悟していた、というわけだ。だが、直後に西田はこう続けている。
「ベルトをかけて、こうやって中谷選手に挑戦できることがとても嬉しいです」
結果的にWBC王者とIBF王者による統一戦に収まったのだから、「挑戦」ではない。下馬評がどうであれ、よりフラットに「対戦」といった言葉を選んでもよかったはずだ。
王者なのに、挑戦。このワードチョイスは意図したものなのか、あるいは無意識なのか。そして実際のところ、どれほどの野心を抱いて中谷とのビッグマッチに臨もうとしているのか。推し量ろうにも、西田についての生の情報を欠いていた。
過去の試合を通じて優れたボクサーだと理解していても、どこか輪郭がぼやけている。井上尚弥とのメガマッチに向けて歩を進める中谷に、待ったをかけようとする男。西田凌佑とは、いったい何者なのか。それを知るために、大阪・長居の六島ボクシングジムを訪ねた。
「意図はないんですけど、無意識に……。実績も、実力も、自分より上っていうのは素直に思っているところなんで。まあ自然と、挑戦という言葉が出ましたね」
淡々とした口調で、西田は会見での「挑戦」発言について説明した。よく晴れた日だった。午前10時の陽光が磨りガラスの窓を明るく照らしている。
穏やかな雰囲気と控えめなトーンに流されてしまいそうになるが、聞き逃がせない言葉があった。実績はともかく、実力も自分より上? 統一戦とはいえ、世界王者がここまで明確に対戦相手を格上と認めていいものなのだろうか。
「そのほうがやりやすいんです。何も失うものがないって気持ちで挑めるので。負けたらどうしようじゃなく、勝ってやるぞと自然に思える。中谷選手が有利って言われても、まあ、そうだろうなって」
転機となる試合はいつも“Bサイド”
10戦10勝2KOの西田と、30戦30勝23KOの中谷。試合数では3倍の、KO率に至っては4倍近い開きがある。本人も認めるように、多くのファンや識者が中谷の勝利を(それも、鮮やかなKO勝ちを)予想しているであろうことは否めない。しかし元世界王者など玄人筋の間では「西田は侮れない」とする声があるのも事実だ。そう水を向けると、西田は「そう言われるのはあんまり……。負けると言われているほうがいいですね」と苦笑した。
思えば、西田がそのキャリアのなかで重要な勝利をあげたとき、試合前の立ち位置は常にBサイドだった。プロ3戦目の大森将平戦、4戦目の比嘉大吾戦、そして世界王座を奪取したエマヌエル・ロドリゲス戦。いずれも下馬評では不利とされながら、リング上で予想を覆した。一方で、IBF王座の初防衛戦となった2024年12月のアヌチャイ・ドンスア戦は、7回KO勝ちを収めたものの「内容は悪かった」と反省を口にしている。
プロ10戦10勝の世界王者でありながら、本命ではなく伏兵として輝くボクサー。なぜ、この奇妙な“ねじれ”が生まれたのだろうか。
西田がボクシングに出会ったのは奈良県立王寺工業高校1年生のときだった。父は元プロボクサーだったが、習いごとは水泳に体操と、西田自身は格闘技とは無縁の少年時代を過ごす。中学時代に熱中したのは陸上の長距離だった。駅伝が好きで、都大路や箱根路を駆け抜けるランナーに憧れた。
だが、王寺工の陸上部には長距離を専門とする部員がいなかった。そこで友人に誘われてボクシング部に体験入部した。ミットを打ち、サンドバッグを叩く。純粋に「楽しい」と思えた。正式に入部すると、家でも父からボクシングの手ほどきを受けた。
高3で国体優勝、名門・近畿大学へ
未経験からめきめきと上達していった西田は、王寺工3年時に国体フライ級で優勝を果たす。本人は「たまたまです」と謙遜するが、才能に恵まれていたのは疑いようがない。いつしか憧れは長谷川穂積や山中慎介に変わっていた。
アマチュアボクシングに青春を捧げる覚悟で近畿大学に進んだ。入学当時は、本気で全日本選手権優勝や世界大会への出場を目指していた。だが、1年時に左肩を脱臼するアクシデントに見舞われる。可動域が狭くなり、思うようにパンチが打てない。
「だんだんモチベーションが下がっていきましたね。燃え尽きた感というか、体が動かんわ、と勝手に思っちゃっていた。いまにして思えば、自分で制限していたんです」
ふと脇に目を向けると、“普通の大学生”としての日常があった。気づけばボクシングは全力を注ぎ込むものではなく、「ただの部活」になっていた。
「チャンピオンになるためにじゃなくて、行かないといけないから部活に行く、みたいな。将来これで食べていくとか、全然想像もできなかったです」
近大ボクシング部で出会い、在学中から交際していた妻の沙捺さん(旧姓:河野)は、全日本女子選手権優勝経験を持ち、五輪出場を目標に掲げていた。男子部員よりもストイックに努力を重ねる彼女の姿を、西田は間近で見ていた。「すごいな」と尊敬の念を抱いたものの、「自分もやらなきゃ」とは思えなかった。
「当時は大きな目標を持てなくて、リーグ戦とか全日本の県予選とか、目先の予定が決まってから頑張る感じでした。どこかで『自分なんかが』って諦めがあったんですよね。どれだけやっても、全日本チャンピオンになれるわけないよな、と」
4年時には関西学生ボクシングリーグのMVPに輝き、全日本選手権のライト級でベスト8に入る。それでもボクシングは大学までと割り切っていた。プロに進む道を考えなかったわけではない。だが、結局は安定を求めて、近大卒業後は大手パンメーカーに就職した。
アマチュアの世界で一定以上の結果を残したが、頂点にはたどり着けなかった。西田凌佑のボクシング人生は、この時点で終わりを迎えるはずだった。
〈つづき→後編〉